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2013-02-13(Wed)

キリスト教に根差す成長神話の資本主義 何時になったら西洋かぶれから抜け出すのか

あいば達也
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/8331c431d785f8eed3083a033c02d3dc

2013年02月13日

●キリスト教に根差す成長神話の資本主義 何時になったら西洋かぶれから抜け出すのか

 自民党の安倍晋三推し進めているアベノミクスにケチをつけている筆者だが、別に安倍晋三を嫌っているわけではない。どちらかといえば、話せば共通の言語を持っていそうな政治家だなと云う印象さえ持っている。ただ、政治家ゆえに共鳴できない部分が多いのだと認識している。小沢一郎の政治活動についても、最近は距離を置くかたちで観察している。他人は、あまりにも無惨な敗北を帰した小沢を見捨てたな、と揶揄するも方が多いが、見捨てたつもりもない。

 小沢の政治行動の失敗が引き金にはなったのだろうが、最近の小沢の口から、彼の哲学的発言が影を潜めてしまったことが、筆者の心に隙間風を吹かせたと云うことだろう。小沢にして、そうなのだから、他の政治家などの言うことは、荒野に意味もなく吹きつける風のようなものに思える。特に挫折感でもなければ、焦燥でもないし、達観でもない。勿論、敗北者の戯言でもない。ただ、政治に求めても意味のない次元の気づきにより、政治とか政党への興味が酷く低下してしまったということだ。

 マクロ経済学と云う学問があり、それなりの論理で成り立ち、世界経済を牽引しているのだろうが、それがどうしたと云う気分で、世界とか地球とか人類を考えると、糞のような次元の話で一喜一憂している、バカな自分の姿が浮かび上がっていると気づいたからである。このような気分を、負け犬根性と言う人がいれば、その通りとしておこう。経済的優位とか不利と云う次元で喧々諤々している虚しさに襲われている人も多いと思うが、そのような人々の声がマスメディアに載ることは滅多にないようだ。経済的な有利不利が人間生活の基盤を揺るがすのなら捨ておけないが、その有利不利が、自分の生命の危機に関係ない限り、深く関与する意味合いが薄れたと考えるに至っている。

 資本主義が普遍性を持つに至った状況からして、実は怪しさがある。こんなことを書くと、お前は気でも狂ったのかと言われるが、極めてクールに醒めている。現在、普遍的な経済システムとなっている資本主義がなぜ西洋に生まれたのか、なぜ文明的には先進性があった黄河やインダスで生まれなかったのか、その辺を足がかりに資本主義のような経済体制が西洋に生まれたかを考えると、或る程度の合点がいく。その合点は、宗教の教えと深い結びつきがあることも判ってくる。マックス・ウェーバーが著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で指摘するように、西洋近代の資本主義を発展させた原動力を、主としてカルヴィニズムにおける宗教倫理から産み出された世俗内禁欲と生活合理化であるとした点も肯ける。

 資本主義が宗教的背景を下に発展した事は想像に難くないが、あきらかに仏教はイスラム教、儒教、神道などの教えとは馴染まない部分が多い。にも拘らず、世界経済のシステムとして受け入れられたのか、多少の疑問を感じる。この疑問を解きほぐすには、それなりの学びが必要だろうから、この際端折らせて貰うことにする(笑)。おそらく、生活の利便性や合理性がキリスト教文化圏以外の人間にも麻薬のような魅力があった結果なのだろう。そう、資本主義は一種の社会システムにおける麻薬なのである。多分、民主主義にも同じことが言えるのだろう。おそらく、キリスト教的資本主義には奇妙な不条理を含む実しやかな行動原理が企み的に含まれていたような気がする。

 それが何であるか、筆者のようなボンクラには知る由もない。しかし、筆者からみると、強欲が善となってしまう奇妙な宗教観に違和感を憶え、その下で育った資本主義には、あきらかに不条理が内在している予感、それも結構たしかさを伴う予感があるのだ。このような予感は、筆者の限られた知識から導かれるものなので、他人さまに押しつける積りは毛頭ない。しかし、キリスト教の不条理と、資本主義の不条理が何処か接点を持っている事実は見逃したくもない。筆者がこのような思考に至ったヒントは「タラントの教え」と云う聖書の一節である。

 「タラントの教え」は、新約聖書マルコの福音書やマタイの福音書に書かれている喩え話だ。書いてある通りに、素直に受けとめると、「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられる」と云う考えである。話をわかり易くすると、3人の人間にその時点での器量に合わせて、5タラント、2タラント、1タラントを旅に出る前に預けた。一年後に戻ってきたご主人(たぶん神)に、3人は預かったタラントを主人に差し出した。5タラント君は5タラント増やし、2タラント君は2タラント増やし、それをご主人に渡した。そして良くやったと褒められ、預けた財貨を彼らに与えた。

 問題は1タラント君である。彼は、御主人が非常に厳しい人なのを怖れ、預かった1タラントを大切に土に埋めて、ご主人の財貨を守ろうと考えたわけである。まぁ前向きではないが放蕩したわけではない。しかし、1タラント君の1タラントは没収され、5タラント君(5タラント儲けていたから10タラント所持)に、その1タラントまで譲ったのである。つまり、5タラント君は11タラント君になったと云う話だ。新改訳聖書の注釈によると、神から与えられた才能や能力を豊かにするものは栄え、折角の才能を活用しない者は1の才能さえも失うと云う解釈がついている。タラントがタレントの語源になった事情が窺える。

 そう云うことなので、キリスト教に於いては、才能や能力を活かすことが善であり、それを押しこめるとか、摘み取るような行為は悪と云う考えにまで至るようだ。新改訳聖書に頼らず原文を読む限り、解釈が意訳過ぎるのではないかと筆者などは疑念を持っている。「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられる」と云う不条理にして不平等な考えがベースにあったとしか思えない節もある。つまり、ヒネクレテ解釈すると、富めるものは益々富、貧する者は富める者に僅かな蓄財も奪われると云う解釈も出来るわけだ。この辺から、資本主義が常設的に成長を求める源泉があるのかな?等と考える最近である。まぁ筆者の独り言の類と読み捨てて頂こう。
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